第43球「屈辱を受け止める器」(2001.10.15)

 「強い棋士は自分が負けた時、相手が誰であろうと“投了しました(負けました)”とはっきり言える人間が強くなる”相手が年下であろうと負けは負け、それを受け止めて頭を下げる。その動作をバネに、あるいはその屈辱を肥やしにより一層の精進をする」とある有名棋士は言う。どんな勝負事もそうだが、「勝つ」か「負ける」の二つに一つしかない。負けた時こそ冷静に試合を振り返り、明日への糧にしなければならない。強くなるチームはそれを嫌がらずに繰り返す。

 負けた事実を素直に受け止めるのは難しい。当然悔しいし、試合展開によっては個人的には120%の活躍をしたと思ったとしても、チームとしての結果は敗戦であることもあったりする。自分のミスや凡退でチームを敗戦に結びつけた張本人なら、なおさらその想いは倍増であろう。

 もちろんその振り返りは「戦犯探し」をするということでは決してない。その想いは自分だけが心の中にしまっておけばいいことだ。周りもそれを理解してあげなければならない。仮にそんな姿を目にしたとしても、明日は我が身なのだ。エラーしたことを責めるのは子供のすることだ。野球人のすることではない。

 俺が自分のプレーを振り返る時に目安にしているのは、意外に思われるかもしれないが、実は「下を向いた回数」なのだ。下を向く回数ということは自分が戦意を喪失した回数だ。自分のことだけを後ろ向きに考えた回数だ。自分が下を向いた時、どのような結果をもたらしているか、そしてそもそも何故俺が戦意を喪失したのか、それを考えようと心がけている。たまたま試合に勝ったとしても、その回数が多ければ「自分が貢献していない試合」として個人的には反省しなければならないし、負け試合であればなおさらだ。しかし、こう考えていくと、負けた事実は事実としてしっかりと受け止めることができるように(無理矢理)思える。ここが屈辱を肥やしにできるかどうかの分かれ目であると思う。

 負けたことを受け止められないような試合をしたのなら、そんな試合をした方に問題がある。それは選手の、そしてチームの器の問題である。そんなものは勝ち負け以前の問題なのではなかろうか。戦うことを放棄したら絶対に試合には勝てないし、そもそもそんな試合はつまらない。今年の負けは俺の中では結構きちんと受け止められるものが多い。決して負けて良かったというわけではないけど、その事実を受け止められて良かったと思っている。諸兄はどう思いますか?